神を超えよ!仏を超えよ!

第七十四回

たましいの目的 その一 その役割

◇お話し:積哲夫 ◇聞き手:何田匡史
二千十八年七月四日 配信

:呪いや恨みが存在するということを知らないと、今の日本社会のイジメの構造はなくならない、といってもいいのです。

何田:昔の人は悪いことや人から恨まれることをすると、死んでから閻魔大王様に裁かれて地獄へ行くことになる、と考えられていました。罪を犯した人は、罰を与えられて地獄で罪を償うことになります。地獄は想像以上に耐えがたくつらいから、生きているうちになるべく罪を犯さないように、人生を生きるようになっていました。罪の抑制が効いていました。でも現在は、もうそういったシステムは無くなりましたでしょうか?

:そういう地獄思想のシステムは、昔と変わっていないけれど、誰も教えていません。それに皆さん信じていないでしょう。死ぬ側が信じていないと、システムは機能しないのです。

何田:お話しを少し戻して、霊と幽霊は違いますか?

:はい、違います。霊体というのは、人間のたましいの霊の部分、つまり記憶です。人間のたましいには、天からいただいた神性の部分と、地からいただいた神性の部分がダブルで入っています。日本語でいうと、天津神と国津神の神性です。

何田:天と地、両方の神性ですね。

:そうです。それとは別に人間の意識活動によって形成されたエネルギーが霊体として、データとして記録されています。それは死んだ後、その人を審判するためのデータなのですが、思いのエネルギーだから、エネルギーを持っています。方向性も持っています。それは他の人間に、働きかけることができます。もっといえば、他の人間に入り込むこともできるのです。

何田:えっ! 他人の身体の中に他の人の霊体が入り込むことができるのですか?

:そう、現在、霊は他人にいっぱい入っています。日常茶飯事に起こっています。人間は神の容器、なのです。ということは、人間という小宇宙はそういうもの、エネルギーの入れ物ですから、人間の思いのエネルギーの容器にもなる、ということを認識してください。人間が亡くなる、つまり、身体がなくなるということはね、どういうことかというと、その容器がなくなるということなのです。

別のいい方をすると、生きている人間の身体は牢獄なのです。生きている人間では、身体が霊を留めて離さないようになっています。しかし人間が死ぬと身体がなくなって、霊、霊体は解き放たれます。そうなるとその霊はどこへでも行けるようになります。どこへでもいけるのですが、その霊が知っている場所へしか行くことができません。地図が必要なのです。生きている間に知っていないと、正しい知識がなければ、正しい地図を持っていない状態で死ぬので、どこへも行くことができないのです。死んでから、さ迷います。だから他の人間に取り憑いたり、他人の身体に入ることになるのです。それは、道理です。

何田:たましいは、身体一つにたましいは一つ、だとお聞きしています。

:身体一つに、たましいは一つです。それが、小宇宙です。人間の身体の中に、たましいがある間は、その外からたとえば、私が何かをしようと思ってもできることの限界があります。悪魔がいるとわかっていても、私がその小宇宙に手を突っ込んで取り去ることはできません。私は、誰かの身体に光のエネルギーを供給することぐらいしかできないのです。人間の身体は、そのたましいを守る牢獄だから。あなたたちが常に勘違いしておられるのは、私が光のエネルギーであなたたちの身体の中にある闇を焼き尽くしてくれるのではないか、と期待する点だといっておきます。

それぞれの小宇宙は、あなたたちの身体の中にある限り、外部からの力をブロックする働きをします。身体はバッファーだから。(バッファー、バッファ(英: buffer)とは、<緩衝するもの>の意味)外から、ちからをかけても、ほとんど効き目がないのです。一晩寝たら闇は元の状態に戻るよ、といっているのはそういうことなのです。結局、最後はあなたたち、それぞれの人間の信仰の問題なのです。解決策はその人の本当の信仰なのです。

人間が、死んだら身体がなくなるので、そのタイミングでは変な話、霊に接触できるわけです。つまり、霊を集めるとエネルギーになるのです。だから悪魔業界は、人間の死を喜ぶのです。世界の歴史の中で王朝によって大虐殺を行うのは、死によってエネルギーを集められるというノウハウを持っている者たちが、人間社会をこれまで支配してきたことを示しているといってもいいのでしょう。

何田:エネルギーというものを何に使うか? ということ、方向性が重要だということでしょうか?

:そうです。恐怖心によって死んだたましいは、萎縮してしまっているから扱いやすくなります。たましいは、燃料になるのです。ところが、キリスト教的にいうとイエス様と繋がっている人は、義によって死んだ人達だからたましいに光を宿しているので、悪魔や闇のものはたましいに手が付けられないのです。いかなる暴力によっても屈さず、天の義に生きた人達のたましいは生きている間から、死んだ瞬間により光に保護されることが決まっているのです。悪魔や闇のものは、光のたましいに手が出せないのです。ところが義を知らないで生きてきた人のたましいは、悪魔や闇の者達によってエネルギー源として利用されることになります。重要なことは生きている間に、あなたのたましいは死んだ後の行き先がもう決定してしまっている、ということです。死んだ人のたましいというものは、それによって、もうすでに死んだ瞬間から区別されています。なんとなくわかりましたか?