[16] 【鼓舞奮闘】伯母の送りを終えて・・

3月31日23:45分、浄化上昇中に伯母の入院している病院から電話が入りました。
「ついにその時が来たか❗️」と思った私は電話を取り、内容を聞くや否や即病院に駆けつけました。
伯母は半眼の状態で呼吸機を着けていました。
静寂漂う病室内では、マウスピースにあたる伯母の吐息が微かに響く‥
心拍計は容赦なくカウントダウンを始める。40・39・38・37・・・・・・10・・・5・4・3・2ツッッッ‥
4月1日 0:47分 主治医の宣告により伯母の死亡が確認されました。
穏やかで、眠るように天寿を全うした伯母の死は、草や木が枯れるような逝きかたでした。享年96歳❗️
伯母の遺体に施す身繕いのため、一旦病室を退場させられた私は待合室で約1時間程待機してました。
病室に入った私は、伯母の顔にかけてあるお顔伏せの白布を外し『積水』で顔と手足を清拭した後、『秘蹟オイル』を丁寧に塗布しました。
そして浄化上昇を兼ねて、私が知る伯母の人生を喚想してみました。
伯母は、岐阜県武儀群上牧村上野に大正12年12月3日生誕しました。
両親の他に、二人の兄と、四人の弟、そして今は亡き妹(私の母)の八人兄弟でした。
早くに両親を亡くし、頼りの兄は出兵のち戦死、もう一人の兄は病弱だったので、伯母は幼い頃から家計を助け兄弟の面倒を見ながら鼓舞奮闘していたそうです。(亡き母に聞いた話です)
伯母の最も盛んな現役時代(昭和15年〜平成10年頃)は、鵜飼で有名な長良川温泉街の料理旅館の仲居を皮切りに旅館業の運営までもこなしていました。
また趣味では小唄や吟、書道等の師範資格を取得し、晩年は多くの人に吟や書を教えていました。
当時(昭和45年〜58年頃)我が家はヤクルトの販売所を経営しており、父母は日々商品の拡販と集金に奔走していました。同居していた伯母が、専ら私達の食事と躾を担当してくれていました。
働き者の伯母は、旅館の仕事や家事を終えたら、趣味の世界に興じるのでした。
従って、我が家は早朝から夜遅くまで、人の出入りが絶えない家庭でした。
私の社交性はそんな頃に育まれたのでしょう。
貧しさから脱出するために鼓舞奮闘して成り上がった伯母の口癖は「お金が無いのは、首が無いのと一緒」でした。
でも、私は伯母のこの口癖が、とても嫌いでした。
伯母が亡くなる前日のことです。
3月30日早朝、伯母が入院している病院より電話が入りました。
電話の内容は、心拍数が急に低下し始めました。そろそろではないでしょうか?という看護師の呼びかけに、父(義弟)を伴い伯母の病院に赴いたのでした。
私達がついた時は、心拍数の低下も一旦は治り安定していました。
表情のない伯母は、瞬きもせず虚ろな眼差しでただ天井を眺めているだけでした。
私は伯母の耳元で、「おばさん!秀幸!わかるか!」と呼びかけました。
すると伯母は無表情ながらもやせ細った右腕をゆっくりと私の方に上げてきました。
握手を求めてきたか細い右腕を、私は両手でそっと包み「よく頑張ったね!」と囁きました。すると、わずかに動く眼球を、左右に動かして返事を返してくれました。
隣にいた主治医が、「アッ!凄い!美里さん返事を返している。喜んでいるのですよ」目頭が熱くなった瞬間でした。
3月31日、深夜2:00ごろに床についた私が10分位経った頃でしょうか、私の身体全体に柔らかな圧がかかりました。(多分金縛りです)
苦しくも無いのですが身体は動きません。咄嗟に「伯母だ❗️」と直感した私は、意識の中で問いかけました「伯母か❓」無反応❗️そして数秒後、掛布団の右側がゆっくりとめくり上がり、そこから暖かい何かが侵入してきて私の身体を包み込むのです。
そしてもう一度「伯母か❓」と尋ねても、無反応❗️そこで私はこのような現象に遭遇した時に必ず発する常套句があります、それは『私は、精神学協会の前島である❗️何か用があるか❗️』と発したとたんに、金縛りから解放されました。
私の場合よくあることなので特段慌てる事もなくそのまま眠りにつきました。
※上記は全て私の就寝中の意識の中で起きた現象です。
  
朝、目が覚めて深夜の出来事を反芻していました。「深夜の出来事は夢の中の事だったのかしらん」と思っていたその時、突然、家内が私の部屋にズカズカと入ってきて言いました。
家内:深夜大きな声でうなされていたよ❗️
私 :伯母が来たような気がしてね❗️
家内:伯母さんなら私のところにも来たよ❗️
しれ–っと、こんな話をして立ち去る家内でした。
私 :エッ❓今、何を言った⁉️
沢庵漬けと茶漬けで食事を済ませ気忙しく働く伯母
整理整頓と脱いだ靴を並べる事には特に厳しかったのを覚えています。
3年前に、自宅で熱中症に倒れてからは一度も帰宅する事なく逝ってしまいましたが、2年前、伯母の家を生前整理した時、『流石伯母だな〜!」と感心しました。
室内は整理整頓されており、更に『断捨離』をした形跡もありました。
また、創建1000年になる浄土真宗のお寺の檀家でもある伯母は、住職に葬儀費用と称して生前にお経代金(枕経〜永代経まで)を渡していたのです‼️しかも法名まで生前に授けられていました。
4年前、伯母の92歳の誕生祝いに義伯父(伯母の夫)の33回忌も兼ねて、伯母の生前葬が催されました。そして集まった親族に向けて伯母は、御礼の挨拶をしました。
伯母:私はお父さん(亡き夫)が亡くなった年(92歳)まで生きようと決めていました。
今日その日を迎えました。これでいつ死んでも悔いはありません。死に支度も
皆さんに迷惑がかからないよう適当に済ませてあります。後は皆さん宜しく
お願いします。ありがとう」でした。
今思えば、伯母が生前葬でした『あいさつ』は、自らの『死出の旅』への序曲だったのかも知れません。
今年1月、主治医から今後のことで相談がしたい旨の連絡が入り、病室を見舞った時の話です。まだ意識がはっきりしていた伯母に私は問いかけました。
わたし:4ヶ月後の5月1日には新元号になるね❗️大正、昭和、平成、新元号と4つの元
号を生きた伯母というそんな証を作ろうや❗️伯母‼️
伯 母 :おぅ〜 頑張ってみるわ❗️(か細い声で‥)
主治医:それはいい事です!美里さん頑張りましょうね!
伯母 :ニヤニヤ(表情のみ)
わたし:しっかり生きてな‼️
その時、新元号までは生きていたい❗️伯母の生ききりたいという意思?の様なものを直感しました。
そして本日、5月1日は『平成』から『令和』への改元初日。
奇しくも、4月1日の新元号『令和』発表の日に逝った伯母でしたが、あの日の『ニヤニヤ』は、今日この日までは生きてるぞ❗️と多分思っていたはずです?その意思をこの投稿に反映する事で、喪主としての務めを終えたような気がしています。
不肖の甥であった私と伯母の物語もこれで終結しました。(合掌)