神を超えよ!仏を超えよ!

第151回(Repeat)

信仰というかたち その一
身近になる神様

◇お話し:積哲夫 ◇聞き手:何田匡史
初回 二千二十年一月一日 配信

:信仰のある普通の人は、神様を求めているから、神様を好きになって会いたいと願うでしょう。ただし、教会に行ったからといって、イエス様に会えないということは、今はもうほとんどの人はわかっています。マリア様に会うことは、教会ではきっとできません。けれど、浄化と上昇をするだけで、イエス様に会えるかもしれないし、マリア様にも会えるかもしれない、と伝えたら、神様を求めている人は素直に浄化と上昇を行うでしょう。何田さんみたいに、宗教評論家みたいな人が、そんなことあるはずがない! と、食ってかかるかもしれません。精神学は新興宗教でしょう? といってね。精神学は宗教ではありません、といくら論理的に説明しても、そういう人達にとっては宗教なのです。だからそういう人とお話をするだけ、無駄です。本当に神様を求めている人だったら、えっ、そんな簡単なことで神様に会えるのだったら、やってみよう! と考えます。

私が仏教に持つ感想は、話がややこしいのです。神様というか、真理は仏教の説明するような、難しいものじゃないのです。

お釈迦様をよく研究してごらんなさい。お釈迦様は毎日何をしていましたか? 毎日、考えていただけなのです。お釈迦様は毎日、論理的に考えておられました。本を読んだわけでもない。ずっと論理的に考えていると、ある日突然、答えが見つかったのです。(お釈迦様のように)そんな時間をかけなくても、浄化と上昇をマスターすれば、あっという間にお釈迦様の到達された領域まで行けます。質問や疑問があれば、お釈迦様に聞けばいいでしょ。イエス様に聞けばいいでしょう。ムハンマド様に聞けばいいでしょう。彼らは、そこ(その領域)に生きておられるのだから。神様に直接、聞けばいいのです! きっと答えてくださいます。これは、浄化と上昇をすれば、だれにでもできることなのですよ。

何田:ああ、そうですか! わからないことがあれば、神様に直接聞きけばいいのですか!

能登はるみさん:何田さんもイエス様や女神様を見た時、言葉ではなくて、イメージやニュアンスで伝わってくるっていっていたじゃないの。

何田:新約聖書のヨハネの黙示録のヨハネ様と同じで、イエス様に会うと、感動してひれ伏してまって・・・…、会話して質問すればいいのですね!

:会話したらいいのです。けれど、返事は私と同じで、イエス様に光とは何ですか? と、聞いてごらんなさい。光だよっていわれて終わるでしょう。

何田:はあ、答えは同じということですか……。

:一生懸命、頭の中で堂々巡りをやって、二千年間、人類は悩んできたのです。なぜ、でしょうか? 上昇をしなかったから、です。だから人間は不幸になってきました。今の地球上で幸せな人というのは、一握りの支配者だけでしょう。その一握りの支配者も本当に幸せなのか? 人の血を飲まなくては生きていられない人たちが、本当に幸せといえるのだろうか? というお話でしかないのです。

何田:私は小さい時から感じていたことがあります。子供の頃から、自然、生き物、昆虫や星(天文)が好きでした。積先生へのお聞きしたいことは、純真無垢な子供の頃のような心、精神はとても素晴らしいと、世間ではいわれますが、本当にそれでいいのでしょうか? 大人のように、変に心や精神が曲がって育っても困りますが、いかがでしょうか? 純真無垢や赤子の様な心、精神って一番大事なところでしょうか?

:一番大事なところかどうかは少し置いておいて、たとえば素朴な子が都会に出てきたらどうなりますか? イジメにあって、深く傷ついて、人間ぎらいになって、自分はひとりの方がいいってなるでしょう。でも、人間っていうのは、人間とかかわらないと、生きていけないのです。無垢なまま田舎で過ごせる、アルプスの少女ハイジのような世界に、憧れるのはいいけれど、人生はそれでは終わらないのです。必ず人間世界の闇っていうものに、向き合わなければならない日がきます。

お釈迦様がそうだったでしょう。

何田:積先生は、お釈迦様は王子の立場でありながら、人々の苦しむ姿を小さい時から見て、お釈迦様も苦しまれ、耐えられなくなって、出家されたといわれました。

:そうです。現在からみたら、二千五百年前のお釈迦様の苦しみはまだ単純でした。可哀想な人を見て、ああ人間はこんなに不幸なのだと考えられました。今の人間はどうですか? お釈迦様のように、哀れんだり同情したりしますか? 現在の人間は、そのように哀れんだり、同情したりはしません。なぜなら、この世の中に、不幸が溢れているからです。子供の頃から不幸をいっぱい見てきているからです。