あの世とこの世のハシワタシ

第29回目

嬉しいご報告

2023年1月5日
語り:説諭士

 あけましておめでとうございます。
昨年の年の暮れ、一本の電話がありました。
懐かしさと、嬉しさが入り混じった興奮状態での会話です。
「久しぶりです。明日、両親と3人で行っていいですか?」
「午前中は、お餅つきするので、午後3時以降がありがたいんだけど、それで良い?」「はいお願いします。僕ずっと会いたかった!」
という事で、30日午後3時過ぎの来訪でした。

電話の主と最初にご相談を受けたのが22年前。
あの頃とは違い、随分大人びた姿と、笑顔で話してくれる姿に驚きは隠せませんでした。
「何歳になったの?」「40歳です。」
随分大人びているけど、話していれば、どことなくあどけなさの中に、その頃の面影を垣間見つつ、ご両親も本人もニコニコ笑顔で、楽しく会話が弾む。

お父さんに連れられて来た彼の、初めて会った時の印象は、うつろで凄く寂しい目をしていたのを覚えています。
このような状態になったきっかけは、高校卒業を目前に、競馬の騎手を目指し体重調整の為、サウナで体重を落とし頑張ったのですが、体重が少しオーバーし不合格。
その後人格が変わったように乱暴になり、部屋のあちこちを破壊したり、挙げ句の果てには多重人格で、身も知らぬ家に電話したり、女性の人格となりお化粧したり、天井裏に潜んだり、余りの暴力で暴れた時は救急車で病院に運ばれ、3度目の時このまま病院に運ぶと、鍵付きの部屋に入れられる処だったその時、救急車の中で「高田さん!たかださん!」と呼び続けたそうで、わたしに連絡があったのは、23時を過ぎていたと記憶。
すぐ駆け付けても1時間半はかかる距離を、必死で車を走らせました。
到着した時、目にした光景は、救急車の中でベルトで縛られたまま、一眼で暴れたことがわかるほど服は泥んこ、息が荒くすごい興奮状態でした。
先ず呼吸を落ち着かせようと深呼吸させました。
だんだん正気を取り戻し「高田さん来てくれてありがとう。落ち着いて来た。もう大丈夫」と言いつつ救急隊の人にも「御免なさい。ありがとうもう大丈夫です。」
1時間半も救急車を出さず待ってくださったことも奇跡でした。

その後も、いろいろあって、一番記憶に残っている事件です。
お父様から緊急を要する電話がありました。
昼過ぎに家を出たまま、夜になっても家に帰ってこない。
電車に乗って大阪方面に行ったのか、警察に保護願いを出した。もし高田さんの方に連絡あれば宜しくという内容。まさかこの真冬に、歩いてくるはずがないと思いつつ、気にしながらうとうとしていました。
明け方4時過ぎ、無言の電話。
一度は切れたものの、また直ぐに電話がなる。
「00君?」小さな声で「うん」「どこにいるの?」「高田さんの家の近く」公衆電話の場所は近くには一つしかなく直ぐに分かったから、車で迎えに行きました。
公衆電話のボックスの中で、座り込んでいる本人を見つけ、直ぐにお父様に連絡。迎えに来てくれるまで、体を温めてあげようと、家の中へと思ったのですが、足が動かないと言う。
それもそのはず、道も凍るような寒さの中、素足でスリッパばき、自分の家(泉南)から14〜5時間歩いて、足裏の皮は剥けて痛々しく、とても歩ける状態でなく、迎えに来てくれるまで車中で待ちました。
この寒さと暗がりの中、一人どのような気持ちで歩いていたのだろうと思うと、涙が止まりませんでした。

その後、本人の努力もあり就職するが、人とのコミュニケーションが取れず、苦労しているとはお父様から耳にしていました。

いろんな事を思い出すと、わたし自身も身体にあざを作ったり、とにかく必死でした。
勿論本人は苦しかったでしょうが、ご家族にとっても地獄の日々が続いていたと思います。

久しぶりの再会に、「最後にあったのは、貴志川八幡神社の神様の前で、いろいろごめんなさいと、高田さんに謝った時から今日で18年」だと本人ははっきり覚えていて、その後も何度も会いたいと思っていたのだと言ってくれました。
その言葉にお母様も「何回もその言葉を聞いていました。
本当に会いたかったんだと思います。今日会えて嬉しいね」というお母様の言葉に、笑顔でうなずいていました。
そこまで思ってくれていた事に、わたし自身も最高のプレゼントをいただいた気持ちに、心からありがとうを言わせていただきますという思いで、嬉しいご報告をさせていただきました。