神様民主主義 その三
たましいの神性の光
◇お話し:積哲夫 ◇聞き手:何田匡史
二千十九年七月三十一日 配信
何田:素直は美徳と、よくいわれます。けれど、精神世界の関係では、何も考えないで素直について行くと、知らずに自分は闇の方へ向かって悪魔の手先になってしまっていた! なんてことになりかねないです。ということは、素直な人にも地獄行きもあるということですね。人生は、自分の脳でしっかり考えて、光の方向へ行動を向けることが、その人のたましいが光を放って輝くことになる。本来の自分の課題を乗り越えることになるのですね。
人生は光の宇宙というたましいに刻印された約束された場所への旅である、ということは本当のことでした。自分が身体を持って生きている間に、たましいの覚醒した人と、覚醒しない人の死後は、予告通り天国と地獄に分かれるということだったのですね。昔からいわれていたことは本当のことでした。
積:今の宗教団体の説く内容を盲目的に信じている人達は、光の世界にたどり着けないよね。もっと、はっきりいうと、宗教団体、政治関係、マスメディア情報関係、教育関係、いま生きているほとんどの日本人のたましいは、光の世界に行けないでしょう。
何田:では医療関係者とか、困っている人達のために自分から奉仕する活動をする人達はどうでしょうか。死んだ後、たましいはどうなりますか。
積:同じです。人生の行動の出発点にその人のたましいが持っている光の部分、神の性=「神性」といいますが、神性が発動したとしても、人間社会で生きている限りにおいては、ちゃんとたましいを清めていますか? 闇を祓えていますか? ということ、を確認し続ける必要があります。たましいの神性を確認し続けない限り、光と繋がり続けることはできないでしょう。
何田さん、不幸な人のお世話をするということは、強烈な穢れ(けがれ)に出会うということなのです。不幸は穢れと同じと考えてください。人間世界自体が穢れなのです。人は穢れていると不幸になります。自分が不幸だと気付いている人は、自分のたましいが穢れているのです。穢れているから不幸になります。全部が理屈なのです。何田:えっ、そういうことでしたか!
積:気付かなかった?
何田:気が付きませんでした! 自分の不幸と、自分のたましいの穢れが等しいなんて、考えが繋がらなかったです。
積:不幸な人間というのは、神様から見たら穢れのかたまりです。なぜ不幸になったのか? を考えてごらんなさい。
何田:自分が穢れているから不幸になるのですか?
積:そうです。
何田:なぜ気が付かなかったのでしょう? 大祓の祝詞とか奏上すると、確かに人生の流れが良くなるのはわかっていましたのに・・・…。穢れを祓うと人生が良くなるのはそういう理屈でしたか。
積:理屈というか、神様の立場で上から下の人間を観察していると、闇の底に沈んでいる人間達があくせくもがいて行動をしていても、たましいの神性の光しか神様に届かないので、皆さんが何しているのかが、わからない状況です。人間達は闇の底に沈んでいるし、神性は光っていないでは、上におられる神様にはあなたという人間の存在がわからないのです。だから手助けしようにも穢れた人間を認識できないのです。
何田:では、穢れとは、何でしょうか?
積:穢れは、ケガレです。
何田:日本神話にはイザナギの神様が黄泉の国から帰ってきたときに、五十鈴川で身体を洗って、穢れを落とされました、と書いてありますが…。
積:黄泉の国からイザナギ神がお戻りになられた時に身体についていたのは、死そのものです。黄泉の国におられたので、死です。それは穢れです。加えて、人間の邪悪な思いは、すべて穢れです。人間というのは邪悪な思いで九十八%くらい生きていませんか? おいしいものが食べたい、お金がほしい、綺麗な人と付き合いたい、とか人間的欲望のかたまりでしょう。これはすべて穢れです。その穢れの状態で生きているということで、身体が病気になり、不幸やトラブルが起きたりするので、神道でいえば祓い給え、清め給えと日本語で唱えて、言霊で穢れを落とすのです。
これは精神学的にいうと、浄化と上昇をして闇を浄化する方法になります。何田さん、人間というのは、穢れをいくら祓っても、またすぐ着くのです。何度でも何度でも穢れは祓って、生きていく必要があるということです。それだったら人生は同じことの繰り返しになるでしょう。そこの領域を抜け出すために、浄化と上昇があるのです。浄化と上昇をすれば、同じ失敗を繰り返さなくてもよくなります。人間は成長できます。浄化と上昇をおこなうことは、たましいに神性の光が宿るということです。これが 、精神学の知識です。