闇と光のはざま
2023年2月10日
編集:日戸 乃子(ひと のこ)
しばらくブログをお休みしていました。理由は、とつぜんに現れたプチ鬱状態です。だいぶん、浮上できましたので、また、書けるときには書いていこうと思っています。
一月に大阪に行って帰ってきてからしばらくして、妙な体感を覚えました。身体というよりは、意識側の体感覚で、「ああ、若いころにこの感覚を経験したことがあるなぁ」と記憶を探っていたのですが、懐かしいような妙な(嫌な)感覚自体は数分で消え去りました。これまでも、『以前に経験したことがある』という感覚を、数十年越しで再度体験することは今回が初めてではなかったので、またか……という感想だったのです。これらの感覚は、けっして晴れやかなものではないので、これまでの私の人生の中で『嫌だな』と感じた体験とともに味わった体感だと思うのですが、感覚はよみがえっても当時の記憶がよみがえることは少なく、いやな感覚の再確認だったという印象だけが残りました。
そして、このような現象が起こったときは、それから以降に意識の低下が起こってくるので、まあ、ある程度の警戒はしていたのです。
時を空けずに集まってくる情報は、コロナワクチンに関することでした。これまでの書き込みでも何度か明らかにしていましたが、私はワクチン否定派であり、自分は一度も打っていません。同居の家族にも、説明して、ワクチンを拒否するように説得してきましたが、家族にも個人意志があるので、打つなら仕方がないというように思っていました。しかし、年を重ねるごとに死亡者が増加して、公には認められていなくてもワクチン接種による副作用と死者はあるようです。すでに3回目接種している家族もいるので、ワクチンの害については常に意識の中にありました。
少しでも、接種後の家族の健康状態を上昇させるために、パフがわりにイコンシール(特大)を家族写真に適用していますが、それでも心配と不安は尽きません。
そんな状態を狙ったように、古くからの友人から連絡があり、共通の友人がなくなった話や、知り合いの四十歳代の娘さんが2回目のワクチンを受けたその夜に急死した話などを伝えてきたのです。ワクチン否定者の中には「何も考えていなくて、愚か(バカ)だから、ワクチンを接種した…」と断言する、とがった人もいますが、きちんとワクチンを受けた人の中には『仕事柄、職場環境から接種しなければならなかった』『コロナを防ぐためのワクチンに悪意を入れるという想定ができない性善説の日本人』という側面もあり、確たる信念や証拠もないのにワクチンを拒否することが難しかったのでしょう。
日本人の八割には、すでにワクチン接種が終わっているといわれていますが、一説ではワクチン接種をおぜん立てした厚生労働省関係者には一割ぐらいしか接種済みの人はいないとささやかれています。危険性に気が付いていた医師の中にも、ワクチン接種をしていない人が一定数います。国を挙げての事業なので、表立って危険を警告してくれる専門家は少ないですが、それでも情報はでてきますし、今後数年の経緯から、接種するように早々と用意されていた『コロナワクチンとは何だったのか?』ということが、明らかになってくることでしょう。
それとも、元首相の暗殺と同じで、真実の究明はされずに、かなりの数の死者や健康被害が出ても、玉虫色の見解で、何も解明されないままで、この国は終焉を迎えるのかもしれません。でも、そういうことにはならないように、民のほうが行政に対してきちんと要求を出していかなければならないでしょう。そういうわけで、意識的には家族を失うことへの『不安』と『恐怖』が、わたしの内なる部分で再現されていたのですが、どう考えもその部分に焦点を当てるとスパイラルの低下しかないのです。
何かが起こる前から、それらのことへの恐怖を自ら倍増させてしまうことほど、無駄なことはないというか、闇側の仕掛けた奈落でしかありません。現実にそうなるのかどうかは、時間の流れとともに、明らかになってくるし、闇側の計画にも光側の別の要因が付加されるので、たとえ壮大で残虐な世界規模のプランがあったとしても計画通りにいくとは限らないのです。
いつも意識が落ちた時に、自分自身へ最終的に納得させる言葉は『私が生まれるはるか前から、世界には邪悪なものたちがいたのだから、その聖書の時代の世界観の設定自体はしかたがない。でも、それを変える岐路に生まれたことには感謝しよう』ということです。そして、この時代に生まれてきたということは、闇側の責任の一片も受け持つことになり、何も行動を起こさずに終われば、光へいたる道を選択しなかったということになります。
問われている物語は単純で、『(闇の残虐さの)すべてが解っても、どちらを選択しますか』でしかないのです。
ということで、わたしはひきつづき光を選択いたします。
日戸 乃子(ひと のこ)