死ぬことについて
2022年8月 18日
編集:日戸 乃子(ひと のこ)
もう少ししたら出版になる新書本「神を超えよ! 仏を超えよ! 積哲夫の言葉【一の巻】」には、たましいについての話も多数収録されています。
なかでも、私の記憶に残ったのは、【第三十七回】の以下のくだりです。
――――――以下抜粋—-
何田 恐怖というものの中に、お金でいえば、昔は自分の周辺には何もなかった。でも頑張って働いて物も増えて環境も整ってきました。そこで今度は、収入が減って、物や環境を手離すことになった時、恐怖に変わる。その時に生まれる恐怖とは何でしょうか。理屈的には何もなかった所に物が増えて、また何もなくなって元の状態に戻るだけなのですが……。
積 それはまさに仏教的テーマですね。それは執着でしょう。わかりやすくいえば失うことに対する恐怖でしょう。失うことに対する恐怖の最大のものは、自分が得たものじゃなくて、自分の命でしょう。
何田 命……ですか。
積 命は、なくなるじゃないですか。
何田 あっ。命がなくなることが恐怖の元でしょうか。
積 そうです。まず、はじめは、死んだらどうなるの?です。次は死にたくないとなるのです。
何田 死にたくない……。
積 たくさん持っている人は死にたくないのです。地上の栄華を永遠に続けたいと思うのです。持っていない人はさっさと死んで、さっさとやり直した方がいいかなと思うでしょうね。だから、お金だけじゃないはずです。物だけでもないはずです。でも一番失いたくないのは命だと思います。
何田 命を失うことはなぜ怖いのでしょうか。肉体的な苦痛が怖いのでしょうか。
積 普通の人は皆さんそう考えます。その潜在的な恐怖というのは私的にいわせると、それが審判(しんぱん)だと思います。
———-抜粋終わり—–
何田さんが今年の2月に亡くなってから、死に対する恐怖が、私の場合には格段に薄くなりました。
潜在的な恐怖がとれたといいましょうか、「現世での働きが足らなかったら、シンレイカイで頑張ろう」と考えられるようになったからです。何田さんがあちらに行って働いていることを知り、『人間は死んだら終わり』というのは、人間が勝手に思い込まされてきたことだったのだと、改めて思いなおしたからです。
人間である前に、私はたましいという意識体であり、それも人間であるという概念を捨てれば『人型意識体としての制約も受けない』ということになります。
意識は、もっと自由でいいんだ!と知れば、多重になった立体的な別の世界が見えてくることになります。
意識が変われば、人類そのものが変わります。
なんか、未来が明るいし、楽しく見えてきますよね。
シンロジア『日戸乃子(ひとのこ)雑記帳』でも、本の紹介をしています。
ひとのこ