神代の話 その二
神様が人間に願うこととは…
◇お話し:積哲夫 ◇聞き手:何田匡史
二千十九年三月二十日七日 配信
何田:積先生、次の質問です。バーチャルリアリティ(VR:コンピュータを用いて人工的な環境を作り出し、あたかもそこにいるかのように感じさせること。仮想現実。人工現実感。)など、生命活動から離れたその場に行かなくても、脳を直接的、または間接的に電気で五感を刺激して、仮想体験することで経験ができるようになってきました。仮想体験で経験できるようになると、生命の必要がなくなって、精神を育てることができるようになるのでしょうか?
実際に経験しなくても、仮想空間で意識が経験すれば満足して、精神は育っていくことができるのでしょうか?
積:精神と意識は違います。
何田:えっ、精神と意識は違うのですか? 同じようなものだと思っていました。
積:精神と意識は違います。精神活動は、意識活動だと皆さんは思っているでしょう。けれどそれは違います。精神というのは「精製された神性」です。私は、たましいの中の神様の活動の結果生まれたものを「精神」と呼びたいと思います。正しくはそう考えるべきです。その、たましいの中の神様の活動のために、脳の電気回路を生きている間は使っています。そのたましいのエネルギーは死んでもなくならないみたいだ、という話です。何田:「私」というものが正しい方向を意識して目指して、頑張って生きても神様には繋がらないのでしょうか? それは錯覚や思い込みでしょうか?
積:何田さん、何を質問されているのかわかりません。
何田:私の意識が満足する方向に動くとは…・・・。
積:ああ、そういうことを言いたいのですね。意識が満足する方向に動くのと、たましいが満足する方向に動くのとは、違います。それが、精神学のいろはでしょう。
何田:えっ・・・。いろはですか!
積:何田さんあのね、意識活動というのは、欲望が最強なのです。お腹空いたな、セックスしたいな、お金欲しいな、など、欲望が意識のエンジンです。その欲望によって人間の文明は進化してきたのです。それは、闇の部分です。生命的欲求というものがあるでしょう、それだけで人間が生きているのであれば唯物論の考えでいいのです。しかし、それと、たましいのストーリーは同じではない、のです。
何田:先生、すると、私と感じたり、考えている部分は意識側のものでしょうか?
積:人間の自我は、大人になるまでに育ちます。大人になるまでに育てられる自我の出発点に、現在の日本では、本来与えられるべき「あなたは神様の子だからね」という情報は一切インプットされないわけです。「あなたは神様の子だから神様のルールに反したら、その権利は剥奪されるのよ」ということです。以前にもいいましたが、殺したらいけない理由を説明できるのは精神学だけです。それは、殺したら神性を失うからです。神の子であるという特権を、人(他人や自分)を殺したら失う、のです。
何田:なんと、そういう理由だったのですか! 人を殺すとどうなるかという、罪は!
積:それでもよい、という人は他人や自分を殺すことになります。お金の話でも同じです。それでもいいのという人、ルール破りをしてもお金が欲しいのという人は、ルールを破るでしょう。でもそうすると神様世界というか、本来その人が持っている神性というものがどんどん失われていきます。
何田:そうですか、そうだったのですか! よく解りました。神様と、たましいの関係の説明を、自我が形成される前にインプットされていないから自分の頭で考えたその・・・…。
積:いまの多くの人間は、自分の頭で作り出した、自分だけの価値観の中で生きているわけです。
何田:そしてそのように生きて、次にその人が死んだら、たましいが肉体から離れて、たましいはレコードでありまして・・・、
積:いいえ。たましいはレコードではありません。レコードは、霊というものです。データはそこに記録されています。ただし、霊は、たましいとイコール(同じ)ではありません。
何田:すると、自分だけの価値観の中で生きてきた人や、自分の考えが正しいと思い込んで生きた人は、死んだ後にどうなるのでしょうか?
積:そういう人達は死んだ後、霊的データだけが地上に残されて、たましいは・・・…。
何田:どこへ! その、たましいは、どこへ行くのですか?
積:たましいは、どこへ行くのでしょうね。というお話なのです。多くの場合はその人の霊的データの中に、たましいは閉ざされてしまいます。それがその人の、さようならなのです。だから、死に方を間違えると、本来の神様と繋がっていたラインがなくなる、のです。
何田:死に方を間違えると、とは? 死に方を間違えるということは、生き方を間違えた、ということでしょうか?
積:そうです。いつも私は、いっています。理屈だよって。全部、理屈で説明できます。理屈の出発点にその人の、たましいは神様方の分けみたまであり、たましいは神様方と繋がっているのだ、と受け入れたら、すべて辻褄が合う、のです。しかし、今の日本ではそのようなことを考えないように教育されているし、洗脳されているし、生きているほとんどの人間は、お金持ちや権力者の奉仕者というか、奴隷のように扱われています。重要なのは、神様は奴隷を欲していないということです。神様になぜ奴隷が必要なのですか?
神様は人間に昔から、幸せに生きなさい、自由になりなさい、ということを希望されています。そのように神様は人に伝えています。だったら、神様は奴隷を求めているのではなくて、解放されて自由なひとりひとりの人間が幸せに暮らす地上を人が作ってくれるのを待っているわけです。そして日本国が戦争に負けたことによって、日本人はそうやって幸せに暮らすことのできる、地上の楽園に生きる権利を手に入れたのです。なぜならば、日本国の戦後の憲法は九条を除くと、西洋の近代における理想主義がすべて織り込まれているから、です。